Site icon 認知症 Cafést online

石見人森林太郎トシテ死セント欲ス―森鴎外の遺言と認知症の人の終末期について―

 

認知症Cafést編集スタッフのSです。

 

先日、文京区千駄木にある森鴎外記念館へ行ってきました。森鴎外と言えば文豪として夏目漱石と並んで語られます。熱心な読者というわけではないのですが、文京区のクリーニング屋に置いてあった案内の葉書にふと目が留まり、寄ってみたいと思いました。森鴎外記念館は区立ということもあると思いますが、人で溢れていることはなく、自分のペースで心行くまで時間を過ごすことができました。

石見人森林太郎トシテ死セント欲す

これは森鴎外の遺言の一部です。「島根出身の森 林太郎」として死にたいという意味です。どこかで耳にしたことがある印象的な文言と思って足を止めましたが、紹介されているエピソードと併せて知ると感銘を受け、いろいろ思いを巡らすこととなりました。何と亡くなる3日前に友人に口述筆記させたそうです。

 

そして、遺言ではさきほどの文言に続き、

宮内省陸軍省皆縁故アレドモ生死ノ別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス

と書かれています。

注:森鴎外記念館の入口にこの像が置かれています。写真撮影可とのことです。

 

文豪の遺言ということで、いろいろな方が解釈を加えていらっしゃるようです。地位や立場とか、それらに付随する権威や名誉とかを拒んだという見方が最終的には私としても最も納得がいくものではありましたが、その文言を最初に見たときは、現代の終末期の議論を思い起こしながら、死期を単に引き延ばすためだけの延命措置や医療行為を拒んだということなのかと思いを巡らしたのでした。(実際に森鴎外は治療を拒むという考えであったようです。)(注1)

認知症の人の終末期―食べられなくなったらどうするか?―

森鴎外は『高瀬舟』(あらすじはこちらをクリック)で、病気の弟が自殺に失敗し苦しんでいるのを見ていられず、弟からの頼みを受けてその手で殺してしまった男を描きました。

 

現代の終末期の議論に目を移すと、日本老年医学会が「立場表明2012」という終末期の医療とケアに関するガイドライン(詳しくはこちらをクリックしてご確認ください)で、

何らかの治療が、患者本人の尊厳を損なったり苦痛を増大させたりする可能性があるときには、治療の差し控えや治療からの撤退(中止)も選択肢として考慮する必要がある

と発信をしています。(注2)

 

認知症の人の終末期問題の重要課題の一つである、「食べられなくなったらどうするか?」という問題に長年取り組まれてきた会田薫子さんは、胃ろうが患者のQOLの維持・向上に貢献している例やそうならない例を丁寧に紹介しつつ、

医学生理学的にいえば、老衰やAD(引用者注:アルツハイマー型認知症)の終末期には人工的水分・栄養補給法を行わずに看取るのが本人にとって最も苦痛の少ない最期になることがわかっています。その理由として、余分な輸液を行わないことによる気道内分泌物の減少と、吸引回数の減少、気道閉塞リスクの低下や、脳内麻薬と呼ばれるβエンドルフィンやケトン体の増加による鎮痛鎮静作用が挙げられます。つまり、人工的水分・栄養補給法を行わないことは「餓死させること」ではなく、緩和ケアなのです。

と言われています。(注3)

 

『高瀬舟』での問題提起は現代にも続いております。
そのなかで「治療の差し控えや治療からの撤退が選択肢」になりうると明記されていることや、「行わないことは緩和ケア」になりうると理解が進んでいることが大事なことと思います。
尊厳ある生や死、苦痛の緩和についてアンテナを立てていきたいと思います。

参考

注1:寿台順誠「「諦め」としての安楽死―森鴎外の安楽死観―

(生命倫理 VOL.26 NO.1 2016)

注2:会田薫子「 認知症の人の終末期を考える―脳血管疾患と胃ろう栄養法―」

(ぽーれぽーれ通巻384号 2012年7月/ぽ~れぽ~れは認知症の人と家族の会の会報)

注3:会田薫子「認知症の人の終末期を考える―アルツハイマー型認知症末期の胃ろう栄養法―」

(ぽ~れぽ~れ通巻383号 2012年6月/ぽ~れぽ~れについては注2参照)

 

Exit mobile version