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痰に悩まされる経験 ―『寡黙なる巨人』から―

 

多田富雄『寡黙なる巨人』を読みました。

 

脳梗塞で倒れ、声を失い、右半身麻痺で右半身の自由を失い、舌や喉の麻痺で摂食の障害を負った著者の闘病記です。

 

 

脳梗塞で障害を負った人の介護

脳梗塞で障害を負った人の介護方法(例えば半身の麻痺の方の衣服の脱ぎ着の介護方法など)というのは、介護技術を学ぶ場では基本事項として教わることです。

 

また、脳血管疾患(脳梗塞を含む)が、介護が必要になった原因の上位(2019年は2位)に来ることからも予想できると思いますが、介護現場では実際にこの疾患で障害を負った要介護の人に出会ってきました。

 当事者の経験

本書は、脳梗塞で障害を負った当事者の経験を伝えてくれる貴重な本です。

 

当事者が何を思っているか、どう感じているかを把握してこそ、相手の立場に立ち、寄り添うということの質が高まるだろうと思います。

著者の多田富雄さんと負った障害について

著者の多田富雄さん(1934~2010)は国際的な免疫学者であったということです。

 

20015月、67歳の誕生日を迎えてまもなくの頃、旅先の金沢で脳梗塞で倒れられました。

 

脳の左側で塞栓による脳梗塞が起こり、(その反対側の)右半身で麻痺の状態になりました。その他、声を出せないという言語障害と、食事や水などを飲み込むことができないという嚥下障害を負うことになりました。

失語について

多田さんは声を出せない失語状態にありましたが、言葉を理解する能力は失われませんでした

 

失語症では、ものはそれとわかっていても名前がいえなかったり、発音できてもそれがさすものがわからない。私の場合は、しゃべれなくても意味は理解できた。文章を作ったり、書いたりすることはできる。つまり文章を理解することは無傷なのだ。神様は紙一重で私の考えたり、判断する能力を残してくれた。

出典:多田富雄『寡黙なる巨人』p.40

 

それゆえに、学者の眼も持つ多田さんの障害当事者としての経験が書き残されたということです。

痰の経験と吸引

今回は多田さんのご経験のうち取り上げてみたいと思うのが、痰(たん)の経験です。

 

痰を自分で出すことができない人に対し、器械を使って痰を吸引(きゅういん)することは介護職に認められた医行為です。私も介護職としてご利用者へ痰の吸引を実施したことがあります。

 

そんなことから、痰が出ないことの苦しみや、看護師に吸引をしてもらっている場面の多田さんの記述は「そうだったか」「そう感じていたか」と切実に感じられました。

痰に悩まされる経験

痰を排出できない

痰を排出できない状況の記述を見てみましょう。

 

喉にはいつも痰のようなものが絡んでいた。しつこい痰が、いつまでも胸に引っかかっていてどうしようもない苦しさだ。やはり妻に「痰を取ってください」と書いてもらって、それを見せる。看護師は吸引機につながった管を喉に差し込んで、痰を引く。

 

しかし喉の痰はいったん取れても、胸の奥でずるずるいっている。しつこい痰は取れていない。そちらの方がもっと苦しい。ゴホンと咳が出てしまえば嘘のように楽になるのだけれど、咳払いができないのだ。

出典:多田富雄『寡黙なる巨人』p.21

 

目を背けたくなるような苦しさと思います。

介護者には食後の状況への配慮が求められる

以下の記述からは、介護者には食後の状況への配慮が求められることが確認できます。

 

食後1時間くらいは気管に迷入したものによる咳と痰に悩まされる。咳払いができないから、いつまでも胸の奥でずるずるいっている。肺炎の恐怖で何とか排出しようとするができない。だから食事は訓練(引用者注:リハビリのこと)が始まる少なくとも1時間前に終わっていなければならない。おちおち食べている暇はないのだ。

 

もし食物を飲み損ねて胸でずるずるいっているときは、目をつぶって待っているか、気を紛らわすために、テレビの前で待つ。(中略)運が悪いと苦しみは二、三時間は続く。その間は、祈るような気持ちでひたすら待たなければならない。

出典:多田富雄『寡黙なる巨人』p.69

 

看護師の間の吸引の技術の巧拙

ご利用者への痰の吸引を実施したことがある者として、自分はどうだったかと考えせられてしまうのは、看護師(専門職)の間の吸引の技術の巧拙についての記述です。

 

毎夜毎夜執拗な痰に苦しめられ、看護師に引いてもらう。引くのが上手な人もいれば、何度やっても引けない看護師もいる。

 

看護師の中に、これが上手な人がいる日は安心だが、いない日は喉の痰が一日中気になる。夜になると痰の苦しみに耐えがたく、胸を切り裂いても痰を出したいとベッドの中で思い悩むのだった。

出典:多田富雄『寡黙なる巨人』pp.21-22

「訴えようにも、どうにも声が出ない」

このような苦しさを感じているときに、多田さんは失語ゆえに「訴えようにも、どうにも声が出ない」とも言われています。

 

このようなことは、失語の人に限らず、介護の仕事の中であれば、認知症や認知機能の低下ゆえに、苦しさを適切に伝えられない、言葉に出来ないということは普通に考えられる状況です。

終わりに

自分が吸引を行っていた場面が思い起こされます。あの方はどう感じていたのか、苦しく感じていたのではなかったかなど思います。

 

相手がどう感じているのか。
それを伝えることができない人にどこまで気を配れるか。
当たり前のことなのではありますが、「(自力で痰が排出できず)痰に悩まされる経験」のような場面では、より緊迫感をもって問われており、一層の留意をもって事に当たらねばならないと思います。

 

(文:星野 周也)

 

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