弊社(セントケア・グループ)では、アメリカ合衆国のニューヨークにある、アルベルト・アインシュタイン医学校(Albert Einstein College of Medicine)のバギース先生(Joe Verghese)と提携をし、先生の研究から学ぶプロジェクトを行いました。
主要テーマは、歩行からの認知症のリスク判定でした。
そこから得られた知見について、数回に分けてご紹介していきます。
バギース先生について
バギース先生(上述の医学校に掲載されているプロフィールのページ)の専門は医学(老年学)と神経学です。高齢者における加齢や病気が歩行や認知機能に与える影響などを研究されています。
バギース先生の問題意識―認知症のリスク判定について―
アルベルト・アインシュタイン医学校のサイトに掲載されているバギース先生に関する記事
“Slow Walking Speed and Memory Complaints Can Predict Dementia”
によれば、先生は、駆け出しの研究者の頃、「何百人もの患者を調べているうちに、高齢者で歩行速度が遅くなってきたら、認知機能の検査でも異常である可能性が高い」と気づき、「歩行速度というシンプルな指標が将来の認知症を予測するのではないか」と仮説を立てて、研究を進められてきました。
先生の問題意識は、この記事での以下のご自身の発言からも伝わってきます。
認知症のリスクがあるか否かを判定する洗練された検査、例えば、バイオマーカー検査、認知機能検査、神経画像検査は、多くの診療場面や地域でアクセスが限られていて、なかなか受けることができません。
私たちが提案する検査は複雑なものではなく、神経科医による検査の実施が要件になっていませんので、より多くの人々が認知症のリスクがあるかどうかを知ることができます。
要約すると、バギース先生が、「一人でも多くの人がアクセスできる簡便な検査」、「専門家でなくても実施できる検査」を目指してこられたことが分かります。
MCRとは何か?
MCRの定義
「認知症のリスク判定に有効」とバギース先生が提案するMCR(Motoric Cognitive Risk)は以下の4つの条件を満たす人です。
1.もの忘れの自覚や訴えがある
2.歩行速度が遅い―性、年齢別の基準値より1標準偏差以上遅い。例えば、バギース先生のある研究では、基準値より1標準偏差だけ遅い値として、70-74歳の男性で80.7(cm/秒)、女性で77.8(cm/秒)が示されている。よって、70-74歳の男女でこれらの速度以下のときに、速度が遅いと判定される。―
3.日常生活に問題はない
4.認知症ではない
一番目の「もの忘れの自覚や訴えがある」については、研究上の厳密な測定については不明であるものの、「あなたは、他の人たちと比べて、もの忘れで問題があると思いますか?」など、「はい」か「いいえ」で回答できる複数の質問から判定されているようです。
少数のシンプルな質問で測定できることが MCRのウリと謳われています。
従って、実践への応用を検討する際には、先ほど一例として記した、もの忘れの自覚を尋ねる質問を知っていればよいであろうと思います。
MCIとの違い
このMCRの定義は、MCI(軽度認知障害)のうち、「客観的な認知障害」を、「遅い歩行」に置き換えたものになります。
具体的に確認してみましょう。
MCIの定義を以下に示します。(注:MCIは、1995年頃に、アメリカのメイヨー・クリニック(Mayo・Clinic)のロナルド・ピーターセン氏らのグループが提唱・公表したものです。)
1.本人や家族(介護者)による「もの忘れ」の訴えがある
2.加齢の影響だけでは説明できない記憶障害が客観的に示される
3.日常生活能力は自立
4.全般的な認知機能(思考力や判断力など)は正常
5.認知症は認めない
6.認知機能に影響を与えるような身体疾患は認めない
注:この定義は奥村歩著『MCI(認知症予備軍)を知れば認知症にならない!』(主婦と生活者、2014)より引用しました。
MCIの定義の方が細かくなっていますが、大づかみすれば、「もの忘れの訴え」、「日常生活に問題はない」、「認知症ではない」の3点がMCRとMCIで共通であり、それらに「遅い歩行」の条件が追加されたものがMCRで、「客観的な記憶障害」の条件が追加されたものがMCIであること―「遅い歩行」か「客観的な記憶障害」かで違いがあること―が分かります。
MCR該当者の特徴(1)―性、年齢、身体健康、認知機能での違い―
バギース先生のある研究論文の結果で、MCRに該当した方の特徴を確認してみます。
2002年から2011年に及ぶ研究における779人(70歳以上)のデータの結果(一部の抜粋)です。
MCR該当者 52名 |
MCR非該当者 715名 |
||
① | 平均年齢 | 79.9歳 | 79.7歳 |
② | 男性対女性 | 40対60 | 39対61 |
③ | 遅い歩行 | 100% | 39% |
④ | もの忘れの自覚 | 100% | 9% |
⑤ | 高血圧 | 75% | 60% |
⑥ | 糖尿病 | 31% | 14% |
⑦ | 認知機能 | MCR該当者で、非該当者より、認知機能の諸側面―記憶力、実行機能、注意力など―で低下が見られる。 有意差あり。 |
この表からは以下のことが読み取れます。
■ MCR該当者と非該当者の間で、年齢や男女比で違いは見られません。(注:その他、学歴でも差は見られていません。)
■「③遅い歩行」、「④もの忘れの自覚」はMCR該当の条件であり、③も④も満たすことが条件ですから、MCR該当者では当然100%です。一方、MCR非該当者で「③遅い歩行」の基準に該当した人は39%、「④もの忘れの自覚」の基準に該当した人は9%でした。
■ MCR該当者では、非該当者に比べて、高血圧、糖尿病の割合の人が多く、認知機能の低下(各認知機能の検査での点数が低い)も見られました。これらの項目は統計的に有意差ありでした。
(注:その他、表には示しておりませんが、MCR該当者で、非該当者と比べて、関節炎の割合の人が多い、うつ症状が強い―これらで統計的な有意差あり―などの結果が得られています。)
なお、MCR該当者において認知機能の低下が認められることから推測できるように、MCR該当者の中には、MCI該当者(客観的な認知障害がありの方)もいました。具体的には52名中28名がMCI該当者であり、残りの24名が「純粋」なMCR該当者でした。
MCR該当者の特徴(2)―認知症を発症した人の割合―
続いて、研究の追跡期間内に認知症を発症した人の結果を下表にて示します。
MCR該当者 52名 |
MCR非該当者 715名 |
|
認知症発症者数 ↓内訳 |
8名(15.4%) | 62名(8.7%) |
アルツハイマー型 | 1名(1.9%) | 40名(5.6%) |
血管性認知症 | 7名(13.5%) | 14名(2.0%) |
その他 | 0名(0.0%) | 8名(1.1%) |
この表によれば、MCR該当者52名のうち8名(15.4%)で認知症を発症し、MCR非該当者715名のうち62名(8.7%)で認知症を発症しました。
認知症発症率がMCR該当者で高いこと、内訳を見ると、MCR該当者で特に血管性認知症の発症割合が高いことが確認できます。
MCR該当者は、非該当者に比べて何倍認知症を発症しやすいか?
このデータで「MCR該当者は、非該当者に比べて何倍認知症を発症しやすいか?」(注:ハザード比)を統計解析で算出した結果が以下のとおりです。
認知症(区別なし) | 血管性認知症 | |
モデル1 | 3.3倍 | 12.8倍 |
モデル2 | 2.7倍 | 11.1倍 |
モデル3 | 有意差なし | 11.5倍 |
モデル1 | MCRか否かの他、性別、年齢、学歴を追加 |
モデル2 | モデル1に身体健康の情報も追加 |
モデル3 | モデル1にMCIの情報を追加したうえ、 MCR該当者からMCI該当者を除く |
結果は以下のように読み取ることができます。
■モデル1は、性別、年齢等によらないMCRの効果(認知症発症に対する効果)を検討したものです。性、年齢に関わらず、すなわち、男性であっても、女性であっても、あるいは、何歳であっても、MCR該当者は、MCR非該当者に比べて、認知症の全体―その種類で区別しない―で3.3倍(注:同じ経過時間であれば3.3倍という意味。以下同じ。)発症しやすく、認知症を血管性認知症に限定した場合は12.8倍発症しやすいという結果でした。
■モデル2は、モデル1に高血圧該当か否か、糖尿病該当か否かなど身体健康の情報も追加して認知症発症に対するMCRの効果を検討したものです。性、年齢、身体健康の状態に関わらず、MCR該当者は非該当者に比べて、認知症の全体で2.7倍発症しやすく、認知症を血管性認知症に限定した場合は11.1倍発症しやすいという結果でした。(注:「身体健康の状態に関わらず」は、「高血圧であろうがなかろうが、糖尿病であろうがなかろうがMCR該当者の場合は〇倍」という意味合いと、「高血圧であること、糖尿病であることの認知症発症に対する影響を組み入れても、それとは独立して、MCR該当者の場合は〇倍」という意味合いとがあります。)
■モデル3は、意味合いとしては、MCIの影響を取り除いた「純粋」なMCRの効果を検討したものです。MCIが混じっていない純粋なMCR該当者の場合、非該当者と比べて、認知症の全体での発症のしやすさについては有意差が認められない結果でしたが、血管性認知症の場合は、11.5倍発症しやすいという結果でした。
まとめ―MCRという指標での認知症のリスク判定―
MCR該当者は、単純に(モデル1)、非該当者に比べて、認知症、特に、血管性認知症を発症しやすいという結果でした。
ただし、MCR該当者はそもそも、非該当者に比べて、高血圧や糖尿病に該当する人が多かったり、MCIに該当する人がいたりもしましたので、認知症の発症しやすさは、MCR該当者であることに起因するのではなく、高血圧、糖尿病、MCIに該当することに起因した可能性も考えられました。しかし、モデル2、モデル3での検討により、それらとは独立してMCR該当者であることが、認知症(特に血管性認知症)のリスク要因であることが確認されたということになります。
特に、本記事の関心からすれば、MCIとは独立して、MCRが認知症(特に血管性認知症)のリスク要因になっているとの結果が重要です。
「(MCRの条件の1つである)歩行速度はストップウォッチでも測ることができる」とバギース先生は言っております。
さらに、先生は「MCRは、MCIと同様に、認知症に移行するリスクが高い状態であり、かつ、MCIを補完するものとなっている」とも言われています。
これらを踏まえれば、簡便に測定できる歩行速度のデータも合わせることで、MCI―例えば「あたまの健康チェック」という検査―でカバーできるリスク判定に加えて、MCIのみではカバーできない認知症のリスク判定も可能になり、リスク判定の精度が増すと期待できます。
(文:星野 周也)