2年前に自らが認知症と公表した長谷川和夫さんの今―共生、予防、体験入居、信仰―

2019/10/21
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こんにちは、認知症Cafést編集スタッフの星野 周也が本日のコラムを担当します。

 

認知症診療の第一人者であり、精神科医の長谷川和夫さんが、自らが認知症であると公表したのは201710月のことです。それから2年を経た長谷川和夫さんの今を伝えるインタビュー記事が読売新聞、朝日新聞からそれぞれ出ました。

記事へのリンク

 

共生について

読売でも朝日でも取り上げられていますが、長谷川さんが自宅近くの道路で転倒され、怪我をされたというエピソードは身につまされました。

 

私自身が現在、転倒不安を抱えて生きているわけではありませんが、高齢者が転倒をして怪我をするというエピソードは、身内でも、介護職として仕事をしていたときにも、見聞きしてきたことです。

 

この前、自宅近くの幹線道路の真ん中で転んで倒れてしまったんだ。顔をひどく打ってね。通りかかった女性が家まで送ってくれた。これぞ地域ケア。

(読売新聞)

 

あっと思ったときには転んでいた。それで、歯が欠けてしまってね。

(朝日新聞)

 

ここに書かれている状況は年を重ねれば、いつか行く道なのでしょう。
転びやすくなるのだろうと思いますし、倒れる前にとっさに手を出して、顔への衝撃を緩和したりするのが難しくなるのだろうと思います。

 

しかし、転倒や怪我を悲観的に受け止めて語るというようなスタンスは、長谷川さんのお言葉からは感じられません。私情を差し挟まず、中立的に状況を述べられていると思います。

 

一方、地域の人に支えてもらっているという共生の視点を当事者の立場から語っておられて、「これでいいのだ」と思わせてくれます。つまり、自身の能力や機能が衰えても、通りがかりの人や地域の人に補ってもらって地域生活を送ればいいというポジティブな期待を与えてくれています。

予防について

これは読売新聞のみでありますが、長谷川さんに予防についての見解を伺っています。

 

認知症の大綱が月にまとまる前、政府が予防の数値目標を定めようとしたところ、「予防が強調され過ぎると努力を怠ったから認知症になったと誤解されかねない」と、当事者らから懸念の声があがりました。

 

この引用は当事者からの懸念を伝える記者側のコメントです。
これに対して、長谷川さんは、

 

そうだと思う。ただ、血管性のタイプは、血圧が高くならないよう予防するのが大事。

 

と述べられています。

 

生活習慣病の予防という考えは広く社会に浸透しているのではないでしょうか。それに比べれば、歴史の浅い認知症予防という言葉や考えは、当然ながらまだまだ馴染みのものとは言えません。

 

しかし、長谷川さんが言われているとおり、脳血管性認知症の原因である脳血管疾患は生活習慣病として位置づけられており、このことは脳血管性認知症がもとを辿れば生活習慣病と捉えられることを示しています。そして、健康日本21という二十一世紀における第二次国民健康づくり運動において、年齢調整死亡率の減少、高血圧の改善、脂質異常症の減少などの項目を掲げて、数値目標が定められています。

 

どのような健康状態(健康診断結果)や生活習慣の人で、あるいは、どのような周囲の人々との関係を築いている人で、認知症の罹患率が高いのか低いのかという健康科学(疫学)の知見は価値があるものとと思いますが、このような知見に対する向き合い方が揺れている時期なのだと思います。また、認知症になることの不安や恐れも依然として高いのではないでしょうか。

 

以前の記事(←リンクあり)でも紹介したとおり、認知症有病率に関連する要因の1つとして年齢(年齢が上がるほど有病率が増す)が挙げられています。この結果からは、長生きができたから認知症になりやすくなったと言えるはずです。これも科学の知見です。同じく科学に基づくとしても、努力を怠ったから認知症になったと捉えるのか、長生きの証として認知症を捉えるのか、そこには天と地ほどの差があると思います。

体験入居について

これは、朝日新聞のみでありますが、長谷川さんが、近所の有料老人ホームへ泊3日の体験入居をされたお話が取り上げられています。

 

すばらしかったよ。職員がうんと訓練、トレーニングされているね。ご飯どきになると、スタッフが食堂に連れて行ってくれる。おっくうだなと感じるんだけど、上手に僕の気持ちをのせてくれるんです。お風呂も最高だよ。髪の毛なんかごしごし洗ってくれてね。王侯貴族のような気持ちです。

 

「ほめすぎ」と思うものの、有料老人ホームで働いてきた経験がある立場からすると、介護職がほめられることは嬉しいです。

 

「王侯貴族のような気持ち」とあり、それでは自立支援型の介護とは言えないのではないかという意見もありそうです。それに対しては牽強付会の意見ではありますが、「上手に僕の気持ちをのせて」という部分に着目して、本人の気持ちに沿った支援がなされているとしましょう(笑)。

 

今後の施設入居の状況も想定して準備されているという点が、読者の方には、きっかけを与えてくれるのではないかと期待したいと思います。有料老人ホームに限らず、特別養護老人ホーム、グループホーム、サービス付き高齢者向け住宅など入居系の施設あるいは住宅(もともと住んでいた自宅を出て、その施設や住宅を拠点に、必要なサービスを受けながら暮らす)を見学していただき、知っていただきたいと思いますし、そこでの生活が自分の価値観や嗜好に合うものか検討していただきたく思います。

信仰について

昨年も長谷川さんのお話をお聞きし、記事(←リンクあり)にしました。そのときの話でも、今回の読売、朝日の記事でも、キリスト教徒である長谷川さんからは繰り返し神様の存在が語られます。神様が心に深く入り込んでいると理解できます。

 

絆といえば、誰一人として同じ絆を持っていない。だから尊い。だから強い。でも考えようによっては弱いよね。それが破れたらアウトだから。破れないよう、包んで守ってくれている大きな存在があるように思う。神様、かな。

(読売新聞)

 

死んだらこうなるって確実に教えてくれた人は過去に1人もいない。僕は心臓の病気もあるから、本当に死を考えたら不安でいっぱいだよね。神様は、その不安や恐怖を和らげるために、私を認知症にしてくれているんじゃないか、ならば、神の手に任せようと。

(朝日新聞)

注:「認知症になり死への不安や恐怖が和らげられている」、「認知症は神様がボクのために用意してくれたものかもしれない」という視点は、読売新聞でも語られています。

 

 

長谷川さんのお話を聞いていると、信仰について考えさせられます。私は、仏壇には手を合わせますし、墓参りもしますが、決して信心深いとは言えません。一方、長谷川さんにとって信仰は世界観、死生観と結びついています。信仰は必要なものでしょうか。

 

認知症の人と家族の会の顧問を務めておられた医師の三宅貴夫氏(故人)は、高齢者と信仰について次のように語っています。

 

わが国の宗教の主流をなす仏教は死へのかかわりが弱いようです。亡くなる前から僧侶が病院や介護施設に出入りしていると「縁起が悪い」と避ける傾向があります。これでは高齢者の支えになりません。

欧米ではキリスト教と医療のかかわりは長く、深いと聞いています。死への準備として、神父など聖職者といわれる人が日常的に病院や施設を訪れています。

日本でも、仏教であれ、神道であれ、キリスト教であれ、信仰を持つ高齢者は、それを心の支えとし、死への過程の導きとして、何かしら生きる強さを感じさせることがあります。

 

私は、今のところは、仏教やキリスト教などの教えを導きに、心の安寧やら統合やらに到達するというイメージはありません。ただし、このような宗教の教えには意識をせずとも深層では影響を受けているかもしれません。

 

それゆえに、宗教の教えを意識して辿るというようなことをせずに、生きる支えを得て、そのような悟りに近い状態を目指していくことが課題なのではないでしょうか。

 

長谷川さんは、「認知症になり、死への不安や恐怖が和らげられている」と言われました。40手前の私には、謹んで耳を傾けるほかありません。ただし、認知症にも救いの面があるというような感覚は、認知症のことを勉強してきたり、身内や介護の現場で認知症の方と関わってきたりしたなかで持ち合わせることができるようにはなりました。
しかし、今、私自身の死への不安や恐怖から免れているとはとてもいいがたいのですが、現場での経験を含めて勉強してきたことを支えに向き合っていきたいと思います。(終)

 

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