認知症では短期記憶が失われるというけれど―祖母は瞬間を必死に書き留めている―
2019/08/30
こんにちは。認知症Cafést Online編集スタッフのSです。
短期記憶が失われやすい
認知症では短期記憶が失われやすいと言われています。
昔のことは覚えているけれど、最近のことや直前のことを覚えていられないという特徴が見られます。
祖母も直前のことをまるで思い出せない
有料老人ホームに入居している祖母も直前のことに対する記憶力が著しく低下していると感じます。
例えば、祖母に母と会いに行った際、介護スタッフの方に付き添われて浴室から部屋へ戻ってきた祖母にお風呂のことを尋ねても、直前のことであるにも関わらず、まるで思い出せないということがあります。
用事を思いついてある階から別の階に行ったけれども何をしにきたか思い出せないということは誰しもあることでしょうが、祖母に起こっていることはそういう比ではおよそないのです。
短期記憶が弱まっていなければ、仮に用事を思い出せなくてもある階からこちらの階に来たということや、何らかの用事があってこちらの階に来たということは思い出せるのではないかと思います。
浴室のある階からエレベーターに乗り別の階に行くということは、90代も後半の祖母にとっては場面の大きな変換どころか、異国や別世界への旅路なのかもしれないと思ってしまいます。
祖母は母に全幅の信頼を寄せている
お風呂のことを尋ねる母と私に、祖母はとても驚きながら「私、入ってきたの?」と聞き返します。
自分で確認をしたいと考えてのことと思いますが、祖母は自分の髪を触ったりします。それにより入浴という事実の判定の手掛かりが得られるかと思いきや、依然として直前に入浴をしてきたことがピンと来ない様子です。
でも、入浴に行ってきたところであるという母の言葉を疑うことはありません。つまり、入浴という事実の判定は他人である母によってなされているのですが、「そんなことはない」と反論をすることも嫌がることもありません。
そういうやりとりを見ていると、祖母は母に全幅の信頼を寄せていると思います。
大げさな言い方にはなりますが、自分でありありと事実と思えないことに対して、「それがあなたの事実」と他人から言われて、無条件で受け入れられることは信頼なくして成り立たないだろうと思います。
でも、祖母は瞬間を必死に書き留めていた
祖母は「今日は〇〇(注:娘である母の名前)が来た」など、日記と呼ぶにはやや心もとないくらいの短文を大学ノートに書いています。
プライバシーの保護の考えには反するかもしれないですが(笑)、このミニ日記は娘である母に筒抜けになってしまっており、間接的に私の耳にも入ってきます。
あるとき、祖母が有料老人ホームのスタッフへの苦情のようなことを書いていたと母から聞きました。
「ひどい人 悪い人 〇〇さん 女 ひどい人 ひどい人 〇月〇日 朝 五時です」
どうやらまだ眠たいのに朝早く起こされてしまったことが悔しかったようでした。
〇〇さんはスタッフの名前です。人の名前を覚えることも難しいであろう祖母が、その場で名前を聞くか、名札を見るかして必死に書き留めたのだと思います。
直前のお風呂も思い出せない祖母の短期記憶の水準からすれば、その瞬間に記録することをしなかったら、名指しで苦情を言うことも、つらい思いをしたと伝えることもできなかったのではないかと思います。
これは執念なのか何なのか。
このようにして、物忘れが激しくなってもその瞬間の気持ちを、時間差があるにもかかわらず、日中に訪ねてきた家族に伝えられるというのは、なんという現在の心身の能力に見合った巧みな状況適応であろうかと感嘆致します。
介護職として有料老人ホームで勤務していた経験を踏まえて
私は祖母を守るべき立場の孫であるにもかかわらず、有料老人ホームで介護職として勤務していた経験もあり、かつ、子に比べれば孫の立場の気楽さもあり、祖母の側に立ちつつも、「介護の現場のあるある」として話を聞いてしまいます。
パジャマから普段着への着替えは、夜勤者がその時間(朝の5時)くらいに行うのではないかと思います。一方、現場検証もヒアリングも行っていないですが、さすがに、そのタイミングで朝食の食堂に連れて行くことはしていないだろうとも思います。
夜勤者は少ない人数で入居者のモーニングケア(起床介助)を行います。5時くらいにお着替えは済ませておくものの、あとは寝てもよし、テレビを見るのもよし、手仕事をしていてもよしと部屋で自由にお過ごしいただくと考えるのではなかろうかと思います。朝食の時間になれば忙しくなりますので、そこから逆算して「何時に~を済ませておく」という思考になります。そのうえでご本人の感情に対して波風を立てないようにと考えるならば、5時くらいにトイレで起きられたタイミングでお着替えをさせていただくというのが自然な流れでしょうが、いつもいつもはそういう自然な流れにはならないであろうと思います。
決して苦情だけではなかった
祖母が書いていたのは決して苦情だけではありませんでした。
「目くすりさしに来てくれる人 男性です この人はやさしい、いい人です」
「〇〇さん、やさしい人 女の人です 〇日 来て話した人」
このような記録は救いです。
ほとけさま
母に全幅の信頼を寄せていて、母が側にいれば穏やかであるということも救いであります。「ありがとう」、「ありがとう」と愛情や感謝の念に満ちたほとけさまになられます。
私が有料老人ホームで勤務していたときもいらっしゃいました。
直前まで怒っていたり、すねていたとしても、信頼を寄せるご家族やお友達がいらっしゃれば、恩赦や放免や福音が巻き起こってしまう入居者の方がいらっしゃいました。
さいごに
母に聞いたところ、「この人はいい人」、「この人は悪い人」という祖母によるスタッフの観察記録、とりわけ苦情のようなものは最近は見られなくなったとのことです。
認知症では出来事や細かい事実を忘れても感情は残ると言われています。
それは今回紹介した祖母のミニ日記からも確認できました。
周囲は改めて本人の感情に配慮した関わりが求められていることを肝に銘じる必要があります。
そして、「出来事を忘れても」という部分について、祖母の事例は良い反例となるでしょう。
すぐ忘れてしまうとしても、その瞬間を書き留めることができるならば、まわりの人に出来事として共有され、記憶されるのだと思います。
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